観世音体育の会

白隠さんが教えてくれた誰でも出来る健康生活

No11.五観の法[真観清浄観]

f:id:namu894:20200124151735j:image

"五観の法"実践その1をNo.10でご紹しました。

夜船閑話(やせんかんな)の中で、白幽子が語っている内観軟酥の法を超次元レベルでアレンジしたのが"五観の法"です。

もはや別ものと見るむきもあろうかと思いますが、筆者の中では、ピタッと白隠さんの世界に寄り添っているつもりです。

 道の世界で言うところの"守破離"を持ち出して語るとすれば、"離れたりと言えどもその元を離れず"のたとえの如くです。

 

f:id:namu894:20200124151857j:image

 過日、茶飲み話で、禅宗の偉いお坊さん(ある老師さま)に聞いたことを書いてみます。あくまで茶飲み話の事なのであしからず。

 

臨済禅の修行者は公案という問題をお師家様(修行道場の指導者、老師さまのこと)からいただいて四六時中その公案に取り組みます。白隠さんは、隻手音響(せきしゅおんじょう)片手の音を聞いてこいーっていう公案を自分で作って修行者を絞り上げていました。

その事を持ち出して、わたくし如きが、己が分際もわきまえないで、「老師さま、白隠さんは偉いお坊さんには違いはないが、ちょっと図々しいですね。だって公案みたいなもんまで自分で作るなんて図々しいと思いませんか。」

と、思ったことはなんでも口に出さないと気が済まない、血液型がB型で生まれた星が双子座で、九紫火星の鉄板問題人間のわたくし、本当に図々しいのはこういうやからであること間違いない訳ですが、上記のような発言を、こともあろうに、老師さまのような立派な方に面と向かってしてしまいました。

するとその老師さまは静かにお答えくださいました。

「公案なんてもんはいくらでも作ろうと思えば作れるもんです。そんな事はどうでもいい事だよ。それよりもだ…」

だそうです。たくさん修行して来た人にしか分からないことがありそうだと感じました。白隠さんとこの老師さまにはその事がわかっているのでしょう。

 

 

何故こんな話しを書いたかといえば、この夜船閑話も白隠さんの公案なのかなぁ?と思ったらからです。

じつは、前にも書きましたが、この夜船閑話は、内観軟酥の指南書のていではありますが、具体的な方法に関しては、どうとでも取れそうな曖昧な表現がけっこうあります。

"もしこの秘要を修せんと欲せば、云々、まず須く熟睡一覚すべし"

のところなんかは、一休さんのアニメみたいに、なるほど何をするにしても、『慌てない慌てない、ひと休みひと休み』と言う事だよな。とわたくしは解釈しました。

軟酥の法は、頭上の軟酥が身体中に溶け行って、心身を潤おす描写の捉え方に各人大差はないと思います。

問題は、内観の法のクライマックス部分です。

そもそも内観の法の内観とは一体なんでしょう?なかなか手ごわいテーマになってきました。

ご承知願いますが、わたくしやたらくたろうめは、僧侶にして、鍼灸接骨院の経営者です。白隠さんのファンであり、医僧的スタンスに強いあこがれを感じていますから、いろいろ白隠さんに関わる書物を読んだりもしていますが、学問的研究者ではありませんから、夜船閑話の読み方において、読者様にはより正確な情報をお伝えしなければいけない時と、思いっきり自分流を押しつけさせていただく時をちゃんと分けてお話ししていきたいと思います。

まずは、資料に基づいて、お話しします。

資料は、禅文化研究所の白隠禅師法話全集第四冊 『夜船閑話』訳注・芳澤勝弘

です。

f:id:namu894:20200120185749j:image

文中で語られる内観の注釈には、

内観=ここでは「観心」ではなく道家修養の法のことをいう。身体内の気血の循環はたらきを感想し、それを活性化させること。

とあります。

そして、重要なのはその内観の中味だと思うのですが、ここは夜船閑話の解説本によって、いろいろ違いがあるので、上記の禅文化の芳澤勝弘著、"夜船閑話"の現代語訳に頼ることにします。

(現代語訳)

「〈前文あり〉まず(仰臥して)目をつむって、しかも眠り込まないで、両脚を強く踏みそろえるように長く伸ばして、身体中の元気をして臍輪、気海、丹田、腰脚、そして足心(つちふまず)に充たすようにする。そして次のような感想をするのである。

〈この気海丹田、腰脚足心が我本来の面目である。その本来の面目はどのような面貌であるか。この気海丹田が我が本分の家郷である。その本分の家郷の消息はいかなるものか。この気海丹田が我が唯心の浄土である。その浄土はどのように荘厳されているか。この気海丹田が我が己身の弥陀である。己身の弥陀はいかなる法を説くのか〉

このように繰り返し繰り返し感想していくならば、やがて、一身の元気はいつしか腰脚足心に充足して、臍の下が瓢箪のようにふくらみ、皮で作った硬い蹴鞠のようになる。このような感想を1週間ないし3週間続けるならば、それまでの五臓六腑の気の滞りや、心気の衰えのための冷えや汗、疲れといった症状はすっかり治るであろう。もし治らなければ、老僧(わし)の首をやってもよろしい。」

 

以上、引用させて頂きました。

これだけの内容を理解して、そらんじることはかなり難しいと思います。

何年も前からずっと気になってました。しかも、否定語だったりするものだから、訳す先生によってはそのまま、ではない。と言い切ってる解釈もあります。

ここのところが肝のはずなのに、すごく難解で手ごわいというのはどうしてでしょう?

だから、夜船閑話は隻手の公案みたいに白隠さんの仕掛けか何かかな?

なんて考えて悩みました。

箇条書きにしてみました。

 

一番目に、本来の面目の面貌はどうだ。

     どこに家郷があるか。

二番目に、我が己身の浄土である。

     浄土は荘厳である。

三番目に、己身の弥陀でもある。

                  弥陀の法は何であるか。

 

ますますわかりません。

わたしは、以前、この部分を『呼吸菩薩』と名付けて(南無呼吸菩薩。南無呼吸菩薩)とだけ唱えることにしていましたが、釈然としません。

肝心な部分が意外に難しくて未消化な思いをかれこれ30年程引きずってきました。

最初に夜船閑話に出会った時からずっと気になっていたと言ってもいいくらいです。

結論から申し上げるならば、そこのところを解決したから、観世音体育の誕生と言うことになるのですが、今回は、文字数もかさみましたので、続きは次回にたします。ごきげんよう。さようなら。

 

 

はるかぜ鍼灸接骨院👇

http://harukaze2009.com/